仏陀真理のことば: 第十九章道を実践する人

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第19章は「道を実践する人」について説いています。

仏陀は言われました。「私は最高の楽しみを得た」と。

そのためには単に言われたことをなしていれば良いのではなく、心が洗われて来なければその境地に達することは出来ないのだといわれます。

いろいろの決まりごと、戒律を守りますと言っただけではその境地には達せられません。

沢山の教えを聞き、何でも知っている博学になってもだめなのです。
瞑想してみても、一人居を続けてみてもそれらは単に空回りをしているに過ぎないのです。
肝心の心が綺麗になってこなければならないのです。


いろいろのことは勉強しなければなりませんが、どうしてもそれだけでは駄目なのです。
心が洗われるという境地になってこなければならないのです。

精進していなければ、その境地には達せません。

怠ることなく油断せずに、求め続けなくてはならないと説いているのだと思います。

256
あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。
賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。

257
粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。

258
多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。
こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、──かれこそ<賢者>と呼ばれる。

259
多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。
たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人──かれこそ道を実践している人である。

260
頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。
ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261
誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。

262
嫉みぶかく、吝嗇(ケチ)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

263
これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、──かれこそ「端正な人」とよばれる。

264
頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。
欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?

265
大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。

266
他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。
汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

267
この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。

268
269
ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。
秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。
かれはそのゆえに聖者なのである。
この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

270
生きものを害うからとて<聖者>なのではない。
生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。

271
272
わたしは、出離の楽しみを得た。
それは凡夫の味わい得ないものである。
それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。
修行僧よ。
汚れが消え失せない限りは、油断するな。