仏陀真理のことば: 第二五章修行僧(2)

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第25章は「修行僧」について説いています。その2

 

自己と言うのは、自我と言ってもいいでしょうか、自分はこうしたいとか、自分の考えはこうだなどと言う心のことを指します。

人様を頼りにすることはできないのです。
参考にすることしか出来ないのです。

結局として、頼れるのは自分の心なのです。
これが正しいかどうかで結果が違ってきてしまいます。

執着するのも自己である私の心です。
その結果苦を招くことになります。

いつでも正しい判断が出来るように、私の心を整えなくてはなりません。

 

360
眼について慎しむのは善い。
耳について慎しむは善い。
鼻について慎しむのは善い。
舌について慎しむのは善い。


361
身について慎むのは善い。
ことばについて慎しむのは善い。
心について慎しむのは善い。
あらゆることについて慎しむのは善いことである。
修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。

362
手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、──その人を<修行僧>と呼ぶ。

363
口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧──かれの説くところはやさしく甘美である。

364
真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから墜落することがない。

365
(托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。
他人の得たものを羨むな。
他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。

366
たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。

367
名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、──かれこそ<修行僧>とよばれる。

368
仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

369
修行僧よ。
この舟から水を汲み出せ。
汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。
貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。

370
五つ(の束縛)を断て。
五つ(の束縛)を捨てよ。
さらに五つ(のはたらき)を修めよ。
五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。

371
修行僧よ。
瞑想せよ。
なおざりになるな。
汝の心を欲情の対象に向けるな。
なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。
(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。

372
明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。
精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。
精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

373
修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。

374
個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。

375
これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。
──感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。

376
その行ないが親切であれ。
(何ものでも)わかち合え。
善いことを実行せよ。
そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。

377
修行僧らよ。
ジャスミンの花が花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。

378
修行僧は、身も静か、語(コトバ)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。

379
みずから自分を励ませ。
みずから自分を反省せよ。
修行僧よ。
自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

380
実に自己は自分の主(アルジ)である。
自己は自分の帰趨(ヨルベ)である。
故に自分をととのえよ。
──商人が良い馬を調教するように。

□ちょっとわかりやすく
自己こそ、自分の主であり、よりどころです。
だから、自己を整えることが、何よりも重要です。

381
喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。

382
たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。

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