十大弟子について-富楼那尊者(プンナ)

説法第一の富楼那(ふるな)

十大弟子中では最古参。

説法第一の富楼那といわれます。

仏陀(ブッダ)が悟りを開いて初めての説法=初転法輪しょてんぼうりん後の第一の弟子です。

十大弟子の中では一番早く弟子となった人です。

弁舌さわやかで、解りやすいお説教をすることで有名です。
大勢いた弟子達の中でも、弁舌にすぐれていたとされています。
60種類の言語に通じていたといわれます。

富楼那と呼ばれた人は複数いたといわれます。

十大弟子の富楼那は富楼那弥多羅尼子ふるなみたらにしがフルネームです。

弥多羅族の女性の子、富楼那という意味。

満願子とか満慈子とも言われます。

智慧第一と呼ばれる舎利弗は、利口に頭が抜けていて、弁護士の大将みたいな富楼那は口を開いて舌までのばして説法しているのです」。

正しくは富楼那・弥多羅尼・弗多羅(プルナあるいは富楼那(プンナ)・マイトラヤニーあるいはミトラヤニー・プトラ)といい、弥多羅尼(ミトラヤニー)は母の名で、弗多羅は子を意味するので、富楼那弥多羅尼子とも書かれる。

漢訳では満願子、満願慈、満足慈、満厳飾女子、満見子などと記される。

仏陀(ブッダ)とは生年月が同じで、仏陀(ブッダ)と誕生日が同で、仏陀(ブッダ)より長生きをしました。

出身にはいろんな説あるようです。

一つには、インド西海岸の港町に生まれで、海洋貿易の大商人だった父親が女中に生ませた子だったということから無一文で生家を出て、薪や香木を売って生計を立て、やがて父親ゆずりの商才のお陰で大商人に成りあがりました。

ある日商人達が仏陀(ブッダ)の教えを唱えたり歌にして歌っているのを聞いて大変興味を持ち、是非一度仏陀(ブッダ)に会いたいという願望を持ちました。
祇園精舎を寄進したという須達多(スダッタ)長者に頼んで面会が叶い、仏陀(ブッダ)の教えに感銘しそのまま出家してしまったと言う説。

もう一つの説は。
コーサラ国のカピラ城近郊のバラモン種族の生まれで、父はカピラ城主浄飯王(仏陀(ブッダ)の実父)の国師で大富豪でした。

母は仏陀(ブッダ)の最初の弟子(五比丘)の一人であるアニャキョウチンジャの妹でした。

富楼那(プンナ)は幼くして既に聡明で、バラモンの四ヴェーダ(聖典)と五明(声・因・医・工・内)に通じていましたが、世塵を厭うて雪山(ヒマラヤ)に入山学道し、苦行を重ねて四禅定と五神通を得たが、仏陀(ブッダ)の成道を聞き、波羅奈(パラナシー)国の鹿野苑へ同朋と赴き仏弟子となったという説です。

富楼那(プンナ)は優秀で舎利弗から徳風を慕われ、よく問答を行い、その見識をお互いに認め合ったといいます。

阿難は彼の弁才を比丘の新人教育の手本にしたとも言われています。

特に弁舌にすぐれていたといわれますが、迦栴延が哲学的な議論を得意とする学者タイプの”論議第一”だったのに対し、富楼那は人情味のある大衆向き説法を得意とした庶民派タイプの”説法第一”だったと言われています。

富楼那(プンナ)の説法を聞いた人は、老若男女を問わすみんなやさしい気持ちになったということでした。

富楼那(プンナ)は特に殉教的精神の持ち主だったことでも有名です。

あるとき彼は、マガダ国の王舎城、ラージャガハの竹林精舎にいる仏陀(ブッダ)を訪ね、これから辺境の地に布教に行こうと思っており、もう帰ることはできないかもしれませんから、最後の説法をしてくださいと懇願しました。

仏陀(ブッダ)は言われるままに説法をしてから、どこに行くつもりなのかと尋ねました。

「スナーパランタというところに参るつもりです」。

「富楼那(プンナ)よ、スナーパランタの人々は気性が荒くて、乱暴だと聞く。人々がおまえをののしったり、あざけったりしたら、どうするつもりだ」

「仏陀(ブッダ)、もしスナーパランタの人々が私をののしったり、あざけったりしても、私は彼らをよい人たちだと思うことにします。彼らは私に手をあげて打ったりしないからです」。

「富楼那(プンナ)よ、彼らがおまえに手をあげて打ったらどうする。」
「世尊、この人たちはよい人です。私を棒で打ったりしませんから」。

「富楼那(プンナ)よ、彼らがおまえを棒で打ったらどうする」。

「世尊、この人たちはよい人です。私をむちで打ったりしませんから」。

「富楼那(プンナ)よ、彼らがおまえをむちで打ったらどうする」。

「世尊、この人たちはよい人です。私を刀で斬りつけたりしませんから」。

「富楼那(プンナ)よ、彼らがおまえを刀できりつけたらどうする」。

「世尊、この人たちはよい人です。私を刀で殺したりしませんから」。

「富楼那(プンナ)よ、彼らがおまえを刀で殺したらどうする」。

「世尊、この世には刀で自らの命を断つ人もあります。誰かが自分を殺してほしいと願っている人もいます。スナーパランタの人々はよい人です。願わなくても私の命を断ってくれるのですから」。

富楼那(プンナ)がここまで言って、ようやく仏陀(ブッダ)は富楼那(プンナ)がスナーパランタで布教することを許しました。

「富楼那の弁」とは、口先だけのさわやかさをいうのではありません。

それは流れるような弁舌をしていても、心の底では命をも捨てる堅い決意を抱いているということなのです。

西方のスナーパランタに着いた富楼那(プンナ)は、一年間で500人の信者をつくり、五百の精舎を建て、かの地で客死したと伝えられています。

舎利弗は彼の徳風を慕い、日中に彼が坐禅する場所に行き、よく問答を行い互いに賞賛しあっていたという。

阿難も、新入の比丘衆に対して、富楼那(プンナ)は非常にためになる比丘であると諭していた。

後に阿羅漢果を得て各地に赴き、よく教下の実を挙げ、9万9000人の人々を教下したとも伝えられています。